鉄子でっす。
こんばんは。
おかあさんが7月に手術で入院する前に
仙台のぎゅーたんさんが
あるものを送ってくださいました。
それは
ぎゅーたんさんのお勤めの病院で作成された
震災の記録集とDVDです。
2011.3.11
震災の日、破壊されたぎゅーたんさんの病院。
避難された入院患者さん。
そして復興への道。
その経過が記録されていました。
そしてDVDには病院の方の復興への願いを込めた曲の演奏。
7月12日の手術を控えたおかあさんに
勇気を!!
との思いでぎゅーたんさんが送ってくださったのです。

おかあさんは
入院のとき、病院に持って行きました。
手術の前の日、
手術の終わった日、
病院で読んだそうです。
文集の一つずつに
思いを馳せ
困難から立ち上がった皆さんの言葉に
力をもらったそうです。
表紙の
瓦礫の中の一輪のひまわりが
復興への希望をあらわしているのでしょう。
とても印象深いです。

震災の日の様子、
緊張感を
感じました。

送ってくださったぎゅーたんさんに
その記録集にまつわるお話を寄せていただきました。
鉄子が
ご紹介したいと思います。

———–ぎゅーたんさんより———
あの震災から1年が経過した頃、
指導医Sが私の働く部署にふらりとやってきて、
上司Mに
「震災の記録集を作りたいなって思ってるんだけどどう思う?」
と投げかけました。
何がきっかけでそう思ったかは当時さだかではなかったのですが、
1年経って、テレビでは震災特集がひととおり終わり、
まさか中央はこれで震災終了って思ってるわけじゃないよね・・・
と不安に感じてた私はその言葉に聞き耳をたてていました。
「なになに?何か始めるんかい??」内心わくわくドキドキしながら
Mの回答を待っていると
「いいっすね~!それいいっすよ!」と期待どおりの返事。
S「じゃ、そういうことでお願い。」
M「・・・」
ということで、まぁ、予想されたいつもの反応で
急遽私の部署が中心となり、記録集を作成することになりました。
地方の、民間の、系列病院のなかでも小さな方の、たかだか97床という病院です。
(震災時よく取材を受けていたような病院は400床はある災害拠点病院といわれる大病院です)
いろいろな思いはあっても、そんな小さな病院です。
どこに何を言ったらいいのかわからずもんもんとしていた職員は多くいたと思われ、
あっという間にプロジェクトチームが結成され、
いつのまにか病院管理部のOKもとられており
始動、ということになりました。
うちの病院が、震災時なんとかもちこたえられたのは皆さんの支えがあったからだよね
という共通認識のもと、
・何が起きていたかを文章に残す
・いざという時のための教訓にできるように
を念頭に原稿をいろんな立場の人に書いてもらいました。
一部ですが、こんな感じです。
・停電で自分の本来の仕事が出来ないため、
「あと三食分の米しかないんです~」
の管理栄養士さんの声を聞き、
農家廻りをし食糧集めに奔走した我が部署
・食洗機が使えず、冬場の凍るような冷水で
入院患者用の食器を
ひたすら洗ってくれた4月入職予定の新人さん
・水道が止まったため、トイレ用の水を地下の雨水を溜めている
タンクから病棟まで
日夜運んでくれたボランティアさん
・スーパー並びも自宅帰宅も不可能な職員ばかりのため、
炊き出し活動をしてくれたタクシーの運ちゃん
(平時に職員食堂はありません・・・)
・アトピー用の食糧確保が難しかった実体験を書いてくれた看護師
・ひたすらガソリン集めに奔走した事務方
・ずーっと病院で頑張ってくれた2011年定年退職予定の
ただ1人の施設管理Tさん。
・電話連絡がほぼ不可能の中、ガソリンが続くまでは、
と直で装置の様子を見に来てくれた業者さん
(支援物資も沢山持ってきてくれました)
・給水タンクに日夜浄水所からきれいな水を運んでくれた東京水道局
・食事時に窒息しないよう、監視し続けた職員
(飲み込みがうまくいかない患者さん用に
通常は刻み食やペースト食があるのですが、
当然なかったのです)
・骨折疑いの患者の入院先を、直接交渉して探してきた看護師
(整形外科がないのである病院に転院させたかったが、
処置室ベッドに何日かいたのです。)
・在宅の人工呼吸器使用患者を迎えに行った看護師と医師。
(そしてみんなで病棟まで担架もどき?であげた。)
・本来当直業務のないリハスタッフが病棟に泊る
ローテーションを組み、
看護師が患者対応に専念できるよう外回りをしてくれた
・エレベーターが使えないため、全て階段で行った。
(配膳リレー、患者搬送など)
・電話がだめで、連絡なしで救急車が突然やってきた
印刷を請け負ってくれた業者自体も被災し、
津波で印刷所が浸かり大変な状況であったのにもかかわらず、
とても共感してくださり、いいもわるいも色々とアドバイスをいただきました。
そんなこんなで5月の開院記念日に合わせていた発行日が
押しに押して7月発行になりました。
記録集が入った沢山の箱に囲まれてしばらく仕事をしていましたが、
今はだいぶお世話になった方々に配布したので残りわずかです。
届いたばかりの頃は読むと思い出すから嫌だなぁなんて言ってる人もいましたが、
結局うるうるしながら読んでいる職員はずいぶんいました。
私も今読んでも「・・・」って感じです。
震災当時はやたらとテンション高かったけど
あの状況でなんであんなにやれてたんだろうな~って不思議な気分にさえなります。
記録集作成の中心を担っていたMさんに「最初のきっかけってそもそもなんだったんですか?」
とメールをしてみたところ、以下のメールが返ってきました。
前置きをすると、私の勤務している病院は30年経っている建物なので
リニューアルする予定でした。
それが、震災で系列病院が全壊したため、そちらから先に立て直し、となって、
リニューアルが無期延期?中止?になり職員がわりとがっかりしていたというのがあります。
うちの病院は丈夫に出来ていたようで、そちらより古かったんですが、半壊でした。
ということで、以下、Mさんのメール文
「N病院にリニューアルいっちゃったけど
沿岸部の病院みなよ
うちの病院は残ったやん
だからね
この病院を作ってきた、S先生とも話しをし合ったんだよ。そして意見一致した。
つまり、神さまが、まだ、やれる箱はのこしてくれたんだからね、地域医療をここでやりな。
いやわしらの継続が義務なんだとね
だから、全職員励ましたいってこともあった
沿岸部などわしは情報あったけど、うちの病院はすくなかったからね
まだまだ、酷いなかでやってるひとが多いんだってことも
だから、議論をなげかけたんだよ」
私がつらつら書いてもこの何行かに凝縮されてるなぁって感じでした。
そして震災の復興は進んでいても
まだ終わっていないのです。
それをお伝えしたかった。
最後に私たちの思いを!!!!
「みなさん、ありがと----っ!でも忘れないでね~!!」
(ぎゅーたんさんより7月16日にいただいたメールより)
——————————————-

私たちは
2011.3.11
震災の日のことを
決して忘れてはいけません。
しかし、
実際には
遅れてる復興のことを報道するニュースは少なくなっています。
ぎゅーたんさんから送っていただいた病院の震災の記録集を読んで
皆さんの思いの詰まった大事なものをいただいたと思い、
ここにご紹介させていただきました。
ぎゅーたんさん、
またいつでも
こちらのブログのコメント欄で
そちらの情報など流してくださいね。
いつも応援しています。
愛子
——————————
ランキング参加中です。
応援クリックお願いします。
↓
にほんブログ村